村山和子[むらやまかずこ](左)
昭和19(1944)年、徳島県生まれ。昭和40(1965)年、朱葉会初入選。昭和50(1975)年、朱葉会会員推挙。朱葉会展東京都知事賞、文部大臣賞など受賞多数。
現在、朱葉会理事長。
髙野千尋[たかのちひろ](右)
昭和60(1985)年、茨城県生まれ。平成20(2008)年、日本女子大学卒業。平成25(2013)年、朱葉会展初入選、船岡賞。平成27(2015)年、ホルベイン賞、朱葉会会友推挙。
平成28(2016)年、朱葉会展第95回記念賞。平成29(2017)年、初個展開催。
1918 (大正7) 年、日本で初めての女流画家団体として発足、女性洋画家の育成と登竜門の場として、多くのすぐれた作家を輩出してきた朱葉会。昨年(2016年)の「第95回記念朱葉会展」では、最年少の会友から記念賞受賞者が誕生した。受賞者の髙野千尋氏と、朱葉会理事長・村山和子の両氏に、長い歴史を受け継ぎ、活動のさらなる活性化を図る朱葉会の取り組み、意気込みをうかがった。
昨年(2016)開催された、第95回記念展会場
満場一致で決まった記念賞
- ——第95回記念賞の個展会場にお邪魔します。改めまして記念賞の受賞おめでとうございます。まずは髙野さんと朱葉会との関わりを、お聞かせください。
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- 髙野千尋(以下、髙野):
- 大学では建築の基礎を学びました。そこでデッサンの授業があったのですが、もっと本格的に絵画の勉強がしたくなったんですね。デッサンを教わっていた山口都先生(朱葉会理事)に相談したところ、ご自分が講師をしている絵画サークルを紹介してくださって、これがご縁の始まりでした。
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- ——出品を勧められたのも、山口先生から。
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- 髙野:
- はい。多くの人に見ていただくことで、自分でも作品を客観視することができる公募展は、とても勉強になると。なかでも朱葉会は多彩なジャンルの作品が集まるところだという話にも心を動かされ、トライすることにしました。ちょうど出品規定に絵の号数の下限がなくなった頃で、小さな絵しか描いたことがなかった私には、それも大きな理由でした。初めて20号の作品を描いてみたのですが、そのときの私には、20号でもとても大きく感じたのを覚えています。
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- ——第95回記念賞を受賞されたときは、どんなお気持ちでしたか。
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- 髙野:
- 受賞を知った最初の5分ほどは単純に驚き、浮かれていましたが、5分過ぎてから個展の準備に半年もないことに気づき、青ざめました(笑)。規定を読んだとき、記念賞の副賞に「朱葉会企画の個展開催」と太字で書かれていたので知ってはいましたが、まさかいただけるとは思っていなかったので……。でもとにかく、嬉しかったです。
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- ——村山理事長にお訊ねします。髙野さんの授賞のポイントはどこでしたか。
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- 村山理事長(以下、村山):
- やはり、フレッシュな感覚ですね。髙野さんが出品を始められた頃から、会員の皆さんと「このまま伸びていって欲しいわね」と期待していました。第95回に出品された作品を観て、「これなら」ということで、審査員の満場一致で決めました。
第95回記念賞作品 髙野千尋《存在証明》
自身の作品の前に立つ髙野氏
多くの人の目に触れるということ
- ——髙野さんは、いつもどのようなところから制作の発想をされていますか。
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- 髙野:
- 印象的なできごとや感激した景色などを覚えていて、そこから生まれてくるイメージを探って形にしていく感じです。今は年に一度朱葉会の本展と、さらに光栄なことに、秋季展にも続けて声をかけていただいていますので、年2回は人に見せる作品として絵を描くという目標ができていますが、ウンウンうなって、最後の最後でようやくアイデアが出てくることもあります。ちょっと、課題や試験のようなところがありますね。
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- 村山:
- それは私の歳になっても同じです。描き続けていくと、そういう苦しい場面があるわ。でも区切りなくだらだらとやっているよりは、やはり人に見てもらうという目標があるほうが頑張れる。その緊張感がいいんです。一人でやっているだけでは、なかなかないチャンスですから。
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- 髙野:
- 本当ですね。多くの方に見て批評していただくことは、もっと良い絵に仕上げたいという大きな動機のひとつです。
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- 村山:
- 全ての意見を聞いてその通りにしなくてはいけないわけではなく、いろいろな意見のなかから、自分の作品の方向性の助けになるものを選び取っていけばいいと思います。最後には「それもこれも全部含めて私です。いかがでしょう」と、開きなおるしかないですよ(笑)。
(左)髙野千尋 《追憶の光》 2017年
(右)髙野千尋 個展会場。(2017年1月9日〜14日、青樺画廊〈東京・京橋〉)
朱葉会の魅力
- ——朱葉会として、会員へのさまざまなサポートがあると思いますが、たとえばどのようなことをされているのでしょうか。
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- 村山:
- 本展の審査、秋季展の講評会、懇親会などのほか、春と秋に開催される絵画勉強会などには、理事たちがボランティアで指導に参加し、毎回盛り上がっています。
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- 髙野:
- 集まりでは、「あなたはどんな絵を描いているの」「顔じゃ覚えられないけど絵なら覚えられるわ」と、最年少の私に気さくに声を掛けてくださいます。みなさん大先輩ですので、人見知りを押して思い切って「アドバイスをいただけないでしょうか」とお願いすると、どなたも嫌な顔ひとつせず見てくださり、しかもお話が、とても具体的で面白いんですね。こういうとき、朱葉会に入れていただけてよかったなと思います。もしかしたら厳しい上下関係があって、私が気づかないだけかもしれませんが……。
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- 村山:
- それがないところが、朱葉会のいいところなのよ(笑)。師匠の派閥や特定の流派、系列を設けず、フレンドリーに、みんなで盛り上げていこうという雰囲気は、それこそ与謝野晶子先生を始めとした創立メンバーの時代から、続いてきているものだと聞いています。絵を描く女性が、自分の作品を出してみようかなというとき、ここしかないという時代が長くありました。だから代々の先輩会員のみなさんは、どなたも会をすごく大事にしていましたし、そこにそれぞれのお人柄を慕う人が集まって受け継がれてきた。となると、私たちにも責任があるわけですよね。次の世代を育てていくのは大変だけど、当然のことだと思っています。
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- 髙野:
- 本当に感謝しています。本展の会期中にお会いすると、私などは「本展も終わったし、これで少し休めるかな」などと思っているなか、みなさんは、すでに次回の朱葉会展や、あるいは来月のご自身の個展のことなどをパワフルに話していたりして……。年に何回かお会いするだけですが、ものすごく刺激をもらっています。
1918年10月の、朱葉会結成を伝える新聞記事。小笠原貞子、津軽照子、尚百子、津田敏子、小寺菊子、与謝野晶子の名が並ぶ。
小寺は小説で、与謝野は短歌ですでに世に知られていたが、洋画の制作にも本格的に取り組んでいた。
朱葉会の命名は与謝野によるもので、ポインセチアを意味する朱葉からきているという。
この翌年(1919)に第1回公募展が開かれ、太平洋戦争の影響で休会した1945年と1946年を除き、現在まで毎年開催されている。
(『朱葉会小史』〈1990年〉より転載)
2016年6月、第95回記念展授賞式。精養軒(東京・上野)にて
(左)第95回記念展 及川由紀子《陽》文部科学大臣賞
(右)同 林ちさと《muse》東京都知事賞
(左)第95回記念展 戸嶋桂子《思い出海路》東京都議会議長賞
(右)同 長田和代《パプリカのシンフォニー》損保ジャパン日本興亜美術財団賞
2016年9月、秋の絵画勉強会。東京文化会館(東京・上野)にて
歴史の重みを感じながら
- ——2021年には100回記念展を迎える朱葉会。理事として今、どのようなご心境ですか。
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- 村山:
- 現在、国内の洋画団体で100回展を迎えているのは、太平洋美術会、光風会、日本水彩画会、二科展で、朱葉会はそこに続こうとしています。歴史を受け継ぐ立場として、自分たちが考えている以上に注目されていることを日々感じ、身が引き締まる思いです。ただ漫然と続くのではなく、新しい血を入れながら、発展していって欲しいと思います。髙野さんのような方が頑張っているから「じゃあ私も出したいわ」と思ってくださる方が増えるのが、会としては一番嬉しいことですから。
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- ——今の時代、女性が絵を描くことは珍しくなくなりましたが、続けていくことはやはり大変ですよね。
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- 村山:
- そうですね。子育てや家族の世話、仕事などで中断してしまう場合も多いですし、そんななか50歳くらいから再スタートする方もいらして、それはすごいことなのですが、その場合も、ようやく「ああ、いい絵を描くようになってきたな」というときに、やはり年齢が立ちふさがってくることが多いですね。髙野さんはその点、数十年分有利ですから、とても期待しています。
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- 髙野:
- はい、頑張ります。今は勉強させていただくだけで精一杯なところもありますが、ずっと続けていけたら嬉しいです。
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- 村山:
- そうそう、先は長いんですから。
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- ——お二人とも、ありがとうございました。
第95回記念展では、昔の本展垂れ幕も展示。
東京都美術館旧館(1926年竣工、1977年解体)の、正面入口の大理石の列柱にもかけられていた貴重なもの。
(取材・構成=合田真子)
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