artkoubo MAGAZINE
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[File68] 太平洋美術会
吉田博──風景表現の巨匠の足跡と、太平洋美術会のかかわり

2021/3/19 ※更新2022/7/7
  • 明治、大正、昭和にかけて活躍した吉田博(1876~1950)。昨年(2020年)の没後70年を機に、ふたたび注目が集まっている。
  • 前半生は水彩と油彩で多くの洋画作品を残し、40代より、洋画に日本伝統の技術を融合させた多色木版画に挑戦。空気感や光の描写など、精緻な風景表現を生み出すに至った、その生涯をたどる。
  • 最後は、吉田博が大きく関わってきた、日本最初の美術団体である明治美術会、そして太平洋画会、太平洋美術会に移行する時代の流れについて取り上げる。
渓流 1928年 木版画
水彩・油彩画家としての前半生
  •  明治9年(1876)、旧久留米藩士上田束秀之の子として誕生した吉田は、幼少期を福岡県吉井町(現うきは市)で過ごす。筑後川の流れる緑豊かな地を紙と鉛筆を持って駆け回り、その風景を描いて育ったという。
  •  明治21年(1888)、福岡の尋常中学修猷館に入学すると、同校の図画教師であり洋画家であった吉田嘉三郎(1861〜94)に画才を見込まれ、養子となる。嘉三郎から本格的に絵画を学んだ吉田は、明治27年(1894)上京し、小山正太郎(1857〜1916)主催の画塾「不同舎」へ入門。同年ほどなく嘉三郎が急逝すると、養家に残された年長の男子として、家族6人の生活を支えながら絵画の勉強を続けた。身につける服にも構わないほど絵に打ち込む吉田を、画塾仲間は「絵の鬼」と呼んだという。
  •  この苦学の日々にあっても、吉田は少年時代と同様自然のなかで過ごすことを忘れなかった。ときにはわずかな食糧と画材だけをもって国内各地の山に長期間こもり、心に響く風景をとらえては描く。その力強くも繊細な構図や自然描写は、山に身を置いてこその視点にあふれていた。
  •  明治31年(1898)、22歳で油彩画〈雲叡深秋〉はじめ4点を明治美術会展に出品、プロの画家としてのスタートを切る。
  •  当時の国内画壇は、日本初の公立美術教育機関「工部美術学校」でアントニオ・フォンタネージ(1881〜82)の薫陶を受けた松岡寿、小山正太郎、浅井忠らが、洋画家の活動推進を目的に明治22年(1899)「明治美術会」を設立したが、そこに明治26年(1893)、ヨーロッパから帰国した黒田清輝(1866〜1924)が加入して会内の「新派」を標榜したのち同会を脱退し、同29年(1896)「白馬会」を結成、大きな力をもち始めている状況だった。そして政府支援の海外美術留学の道は、実質的に黒田の門下生中心であることを知った吉田は、黒田へのライバル心と海外への憧れを募らせた。
雲井桜 1899年頃 水彩 デトロイト美術館蔵(複製)
日暮里 1901~03年 水彩 福岡市美術館蔵
月見草と浴衣の女 1907年頃 水彩 個人蔵
  •  同じ頃、横浜の外国人居留地の店に置いていた自身の水彩作品を、東洋美術コレクターでアメリカ、デトロイトの実業家だったチャールズ・ラング・フリーア(1854〜1919)が評価したことを知った吉田は、自費でのアメリカ遠征を志す。不同舎の学友だった洋画家の中川八郎(1877〜1922)とともに、明治32年(1899)9月27日、片道だけの旅費と持てるだけの作品を抱えて、東洋汽船会社の〈亜米利加丸〉に乗船、10月中旬サンフランシスコに上陸。23歳のときだった。
  •  11月、ミシガン州のデトロイト美術館にたどり着き、片言の英語で作品を見せると館長の目に止まり、2人の水彩やスケッチで構成する特別展が決定。吉田33点、中川7点もの作品が売れ大成功のうちに終わった。その後はボストン美術館、次いでワシントンやプロビデンスでも2人展を開き、いずれも成功を収める。
  •  同じ頃、パリ万国博覧会に出品された吉田の作品〈高山流水〉が褒状を受賞したことを知った2人は、明治33年(1900)ヨーロッパに渡った。ドイツ、スイス、イタリアを歴訪し、その年のうちに再びアメリカに戻ってからは、満谷国四郎、鹿子木孟郎、丸山晩霞、河合新蔵ら気鋭の日本人洋画家たちとも合流。年末から翌年にかけて、ボストンとワシントンで6人展を3回開催し、話題を呼んだ。
  •  その後も吉田は、明治36年(1903)より、洋画家として活動を始めていた吉田嘉三郎の実子で義妹のふじを(1887〜1987、のちに吉田と結婚、国内初の女性洋画家団体「朱葉会」参加)とともに、再び日本を出国。アメリカ・ヨーロッパ・中東・アジアを4年にわたってめぐり、訪れた地ごとに風景画を中心とした制作・発表を重ねた。帰国後は国内外の山岳や田園を精力的に旅し、風景表現を追求した。

ヴェニスの運河 1906年 油彩 個人蔵

1908年の太平洋画会に出品され、同展を見に行った夏目漱石の小説『三四郎』にも登場する。

渓流 1910年 油彩 第4回文展出品 福岡市美術館蔵
ヨセミテの谷 1924年 油彩 茨城県近代美術館蔵
木版画で独自の境地を築いた後半生
  •  水彩画、油彩画で高まった名声に飽き足らず、吉田は新たな境地を模索していた。
  •  日本の多色木版画は、江戸時代より「浮世絵」として継承されていたが、明治30年代頃より、従来の洗練された技術に、構図など新しい要素を取り入れた「新版画」として発展を見せていた。吉田はこの世界に着目し、洋画の描法に多色刷り技法を融合した新しい風景画の開発に力を傾けていく。
  •  大正9年(1920)、44歳からの挑戦だった。
  •  新版画は浮世絵の時代と同様、元絵を描く絵師、版木をつくる彫師、そして刷師と、三者の完全分業が確立しており、絵師の地位は高くはなかった。しかし吉田は絵師としての図案の創造性を最高位に置きつつ、同時に版画作品としての制作を統括するディレクターとして、彫りと刷りへの注文と指導にあたるという制作の流れをつくり上げた。
  •  重ね刷りの多さも型破りであった。従来の多色木版画であれば、版木の刷り重ね回数は10数回程度なのに対し、吉田は平均30回、最大で90回以上も版を重ねることで、画面の複雑な配色を獲得。吉田の妥協を許さないこうした仕事ぶりから、細密で叙情にあふれた唯一無二の風景表現が生み出されていった。
  •  吉田が生涯に制作した木版画は、 昭和21年(1946)、70歳での最後の作品〈農家〉を含め、250数点に及ぶ。
レニヤ山 1925年
日本アルプス十二題「劔山の朝」
瀬戸内海集「帆船 朝」1926年 第8回帝展出品
瀬戸内海集「帆船 午前」1926年 第8回帝展出品
瀬戸内海集「帆船 霧」1926年 第8回帝展出品
瀬戸内海集「帆船 夜」1926年 第8回帝展出品
冨士拾景「河口湖」1926年
東京拾二題「亀井戸」1927年
雨後の穂高山 1927年
沼崎牧場のひる 1927年
糸魚川にて 1929年
ラングーンの金塔 1931年
瀬田之唐橋 1933年
陽明門 1937年
  •  水彩・油彩から木版画まで、吉田の作品は発表時から国内外の多くの著名人を魅了してきている。画家としての本格的始動以来、積極的に海外での制作発表を重ねてきたこともあり、とりわけ海外での知名度と評価は、日本で知られている以上に高い。
  •  もっとも有名な逸話は、昭和20年(1945)、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着した際「吉田博はどこだ」と問うたというものだろう。実際、英語が堪能な吉田が出迎える自身の版画スタジオには、マッカーサー夫人はじめ多彩な人びとが訪れ、さながら美術サロンの趣であったという。
  •  また昭和62年(1987)、イギリス王室専門誌『Majesty』に、ケンジントン宮殿のダイアナ英国王太子妃(当時)執務室の写真が掲載されたが、その壁に吉田の版画作品〈猿澤池〉〈光る海〉が掛かっており、それらが前年の同妃初来日時に妃が自ら購入した作品であったことなども続いて報じられた。このできごとも吉田の作品が再び美術界の関心を集め、その高い技術と作品性があらためて再評価される契機となった。
猿澤池 1933年
瀬戸内海集「光る海」1926年 個人蔵
『Majesty』誌掲載の、ダイアナ妃執務室の画像(提供=吉田司氏)
太平洋美術会と吉田博
  •  明治34年(1901)に最初の洋行から帰国した吉田は、「明治美術会」の会務委員となり、翌35年(1902)、さっそく組織改革に着手。満谷国四郎、中川八郎、石川寅治、石井柏亭、大下藤次郎、丸山晩霞といった、のちに日本近代美術史の曙を築いた画家たちと、新たに「太平洋画会」として創立させ、同年3月上野公園第5号館で第1回展を開催した。
  •  会の命名は発起人である吉田の発案によるもので、太平洋を渡り、洋画の原点から最新の流れまで、アメリカ、ヨーロッパの現場をつぶさに見てきた吉田の壮大な志がこめられていた。「太平洋画会」は徐々に、国内洋画界を牽引する大きな潮流へと成長し、黒田清輝の「白馬会」に対抗する二代潮流として、明治の画壇を二分するほどの隆盛を誇った。
  •  大正12年(1923)関東大震災が起こり、版元の木版画店に預けていた版木と版画作品が焼失したほか、太平洋画会会員の多くが被災し困窮に見舞われた。これらの救済策として吉田はアメリカへと向かう。これまでに刷った自身の版画や会員の作品を多数売り上げたのみならず、各地の山岳風景をたずねて現地制作を重ね、さらなる名声を獲得したのち、大正14年(1925)帰国。いっそう制作に打ち込んだ。
  •  その後吉田は昭和22年(1947)から同25年(1950)の逝去まで、太平洋画会初代会長を務めた。太平洋画会は昭和32年(1957)、太平洋美術会と改称、日本最古の美術団体として現在に至っている。
  •  また明治37年(1904)には同会の後進育成のため「太平洋画会研究所」が設立(初代校長・中村不折)。ここに吉田も教官として後進の育成に当たり、当時、官立の美術学校に対抗し、在野における唯一の存在として、洋画界に多くの才能を送り出した。こちらも現在も「太平洋美術会研究所」として、プロ・アマを問わず美術を愛する者たちが修練に集う。
  •  吉田博が興し、明治から令和まで五つの時代にわたり、日本画壇に名を残す幾多の俊英を輩出してきた太平洋美術会は、今なお新たな美術表現を模索し続けている。
第116回 太平洋展
  •  昨年のコロナ禍による緊急事態宣言をふまえ、開催中止となっていた太平洋美術会の年度展「太平洋展」の第116回が、いよいよ5月12日より開催となる。
  •  絵画、版画、彫刻、染色の4部門から見応えある作品が集まり展開される、多彩な表現の競演。満を持しての充実した内容になることは間違いない。
  •  今年度に限り、25歳以下および外国籍者には出品料大幅割引の特典もある。受賞作家たちと肩を並べて展示されるチャンスとして、自身の実力を試したい人、発表の場を探している人の登竜門として、ぜひ挑戦してほしい。
  • (文・構成=合田真子)
  • (木版画作品画像提供=吉田博トラスト)
お知らせ
太平洋美術会
  • 太平洋美術会研究所 生徒募集
  • 美へのチャレンジを応援します。
  • 絵画教室/本科・研修科
  • 彫刻教室/本科・研修科
  • 絵画/土日講座
  • 版画/土日講座(木版・エッチング)
  • クロッキー科(土曜日午後1時より、簡単な手続きでどなたでも)
  • 詳細はホームページをご覧ください。
  • https://www.taiheiyobijutu.or.jp/labo
公募情報
第116回 太平洋展 ※終了致しました。
  • 会期
  • 2021年5月12日(水)~24日(月) ※5月18日(火)は休館
  • 会場
  • 国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2)
  • 種類
  • 自作未発表の油彩・水彩・版画・彫刻・染織。
  • 作品の大きさ
  • 油彩(30号以上500号迄)・水彩(30号以上80号迄)・版画・染織は特に制限しないが壁面に耐えられる大きさとし、彫刻は美術館規定によります。
  • 額装のガラスは不可(アクリル板を使用すること)。
  • 一般者のみ対象 油彩・水彩・パステル等で「20号限定サイズ作品」を募集。
  • 出品料
  • 一部門につき2点まで一般は11,500円(カラー図録代・送料含む)、会員・会友は13,500円(カラー図録代・送料含む)
  • ただし、25歳以下及び外国籍の方は出品料6,500円とする(外国籍の方6,500円は今年度のみ。旅券など証明書の提示を求めることがあります)
  • その他の詳細は、下記の要項をご覧ください。
  • https://www.taiheiyobijutu.or.jp/exhibitions/opencall
  • 出品申込締切
  • 2021年4月10日(土)
  • ※国立新美術館宛に直送しても受付はできません。4月10日(土)までに出品料の振込と出品申込書(葉書)の郵送をし、5月3日(月)に同封の「作品搬入票」に所定事項を記入のうえ提出してください。

太平洋美術会研究所

 

第116回 太平洋展チラシ

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