吉田博《日本アルプス十二題 劔山の朝》大正15(1926)年 木版 個人蔵
確かな技術に裏打ちされながら、自然に対する真摯なまなざしで叙情豊かな風景画を描き続けた吉田博。その初期から晩年までの作品を集めた展覧会が、東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で開かれている。博の孫にして、自身も画家として活動する吉田興文氏に、博が残した足跡と、作品の魅力を語ってもらった。
パイオニアとして
- 「祖父が生まれたのは1876年、いまから140年ほど前の福岡県久留米です。子どもの頃から絵が好きで、野山をかけ回っては風景を写生していたそうです。中学生のときに、図画教師をしていた吉田嘉三郎に見込まれ養子に迎えられます。そして18歳ころから通い始めた、東京にある不同舎(ふどうしゃ)という画塾で学びながら、博は才能を開花させていきます」
- そう語る吉田興文氏も画家として活動をし、興文氏の父(博の息子)の吉田遠志も版画家だった。描く才能は遺伝するのか尋ねると、「血か環境か、どちらのせいかは分かりません。ただ、目白にあった祖父の邸宅に50畳ほどもある大きな画室があり、その部屋で幼少期に触れた数々の作品の印象はやはり決定的でした」。
- 興文氏は、日本画壇の黎明期に活躍した博の生涯を貫くものを「パイオニア精神」と言う。「何でも進んでやる、誰もやらないことをやる人だったのだと思います。それを端的に表すのが最初の渡米でしょう」
- 1899 年、23歳のときに、中川八郎と船の片道切符とわずかな生活費だけを持ってアメリカに旅立った。幸運な偶然で、水彩画がデトロイト美術館の館長の目に留まり、開いた展覧会が絶賛される。
- 「日本から来た珍しさもあったとは思いますが、展覧会の開催を申し出られるということは、日本人の精神を表した博の作品がアメリカの人々を驚嘆させる魅力を放っていたのだと思います。作品の販売で充分な資金(小学校教諭の13年分の給与に相当する)を得た博は、ヨーロッパも巡ってさらなる研鑽を積みました」
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館「吉田博展」の展示室にて、吉田興文氏
(左)吉田博《冬木立》明治27‐32(1894‐99)年 水彩 横浜美術館蔵
(右)吉田博《土手の桜》明治34-36(1901‐03)年 水彩 福岡市美術館
吉田博《雲叡深秋》明治31(1898)年 油彩 福岡市美術館蔵
太平洋画会の設立
- その頃の日本ではフランスの印象派の影響を受けた黒田清輝らの美術団体・白馬会が人気を得ていた。博は白馬会に対向し、1902年に属していた明治美術会を仲間とともに太平洋画会(のちの太平洋美術会)として新しく設立する。太平洋画会の命名は博によるものだった。
- 「ヨーロッパ一辺倒の白馬会に対し、太平洋をとりまく国にも注目すること、また洋々たる大海原を自分たちの力で渡っていく決意を表したものであると思います」
ふじをとの世界旅行
- 博の外遊は生涯を通じて幾度も行われ、世界各地の風景を切り取っている。1903年には、後に妻となる義理の妹のふじをを伴って渡米。二人展をアメリカ各地で開催した。16歳と非常に若い画家だったふじをの作品も話題になり、二人展は成功を収めた。その後ヨーロッパ、アジアを通り、足かけ4年に及ぶ世界一周をはたした。
- 博とふじをの帰国展は夏目漱石も観覧することとなり、小説『三四郎』には三四郎と美禰子が「長い間外国を旅行して歩いた兄妹の画」を観る場面が登場する。
吉田博《ヴェニスの運河》明治39(1906)年 油彩 個人蔵
山への情熱
- 博のパイオニア精神は、制作のスタイルにも表れている。絵の題材として山に惹かれた博は、山のなかに数ヶ月も滞在しながら油絵を現場で描いていた。
- 「日本の背骨をつっきるように、北アルプスを2カ月かけて、木の根をかじりながらスケッチ旅行を断行したこともありました。博が画題にした山々は、当時ほとんど人が足を踏み入れることのないような場所。手練れの案内人を伴いながら山に分け入り、滞在して大きな油絵を描くのは大変な労力と資金力を必要とする、真似のできないスタイルでした」
- 山の上では天候が刻々と変わり、四季の変化も鮮やかに表れる。その変化を鋭敏に体全体で感じ取り、感動を伝える博の筆から風景画の傑作が多く生まれた。
- 後年に博が取り組む木版画では、同じ版木を使いながら配色をアレンジすることで、朝、昼、夕、夜などの異なった時間を表現したものもある。自然のなかに没入するなかで鍛えられた観察力が発揮された連作といえるだろう。
吉田博《穂高山》大正期 油彩 個人蔵
吉田博 (左)《瀬戸内海集 帆船 朝》(中)《瀬戸内海集 帆船 午後》(右)《瀬戸内海集 帆船 夕》
大正15(1926)年 木版 個人蔵
世界を魅了した木版画
- 50歳を前にして挑んだ木版画でも、博は独自の世界をつくった。
- 「先に触れた、同じ版木を使った技法が特徴の一つ。そして、伝統的な木版画よりもずっと大型の作品をつくったこと。また、たくさんの版を重ねたことも独特の表現でした。木版画は色ごとに木の版を取り換えて写し取り、色を重ねて制作するものですが、伝統的な木版画が10数回程度なのに対して、博は平均30回、最大で90回以上も版を重ねました。それにより豊かで繊細な色使いを表現しました」
- 博が残した木版画は250種ほどにのぼる。欧米の美術館や個人にコレクションされているものも多く、心理学の世界的権威のフロイト博士や、イギリスのダイアナ妃も博の木版画を愛したという。
- 絵に対する情熱の激しさから「絵の鬼」とも呼ばれた博だが、描かれる世界は穏やかで透徹とした、自然への深い敬意がにじむ。
- 吉田博の画業の全貌に迫る「生誕140年 吉田博展 山と水の風景」は東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で8月27日まで開催中。
左《ケンジントン宮殿の中にある執務室のダイアナ妃》
イギリスの王室雑誌『Majesty』1987年より、壁にかかる2点の版画は吉田博の作品
写真提供:吉田司
右 吉田博《瀬戸内海集 光る海 》大正15(1926)年 木版 個人蔵品
ダイアナ妃執務室の作品のうちの1点(右側)
(取材・構成=竹見洋一郎)
吉田興文[よしだ・こうぶん]
- プロフィール
- 1945年、版画家であった吉田遠志の三男として疎開先の新潟県新津市(現新潟市秋葉区)の桂屋敷で生まれる。祖父は吉田博、祖母は女流画家の草分けでもある吉田ふじを。
- 大手電機メーカにて勤務後、六十四歳から水彩画を描くようになり、2011年太平洋展に初出品で初入選。グループ展、個展多数。現在、太平洋美術会会員、狭山市美術家協会会員、スケッチ会「景」主宰。
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